TACT/ FESTIVAL 2014「リメディア~いま、ここで」
究極のヌーヴォー・シルク(新しいサーカス)、リメディア。
瀬戸内サーカスファクトリー代表/
フランス国立大道芸サーカス情報センター日本特派員
田中未知子
フランスのヌーヴォー・シルク・フェスで、カンパニー・リメディアは「サーカス」にジャンル分けされることが多い。いざ公演を観ていると、え?これのどこがサーカスなの?!と多くの人が首をかしげるだろう。それもそのはず、リメディアの舞台には、サーカスを連想させるもの―空中ブランコ、綱渡り、ピエロや動物など―は、いっさい出てこないのだ。
ほとんど強迫観念にかられて積み上げたとしか思えない、がらくた。そこにうずもれ、逃げ惑う人間たちは、サーカスの花形からはほど遠く、客席にいるわたしたち、普通の人間と同じ弱さをさらけ出している。じゃあいったい、なぜこれが「サーカス」と呼ばれるのか。
カンパニーを率いるカミーユ・ボワテルは、フランスで200以上といわれるサーカス学校ピラミッドの最高位、アカデミー・フラテリーニでサーカスを学んだ。
フランスにこれほど多くのサーカス学校ができたことには、理由がある。18世紀末に生まれフランスで発展した近代サーカスは、未知なるものや非日常を連れてくる、特別な存在だった。だが映画やテレビが登場し、飛行機に乗って「日常の向こう側」をたやすく見ることができるようになると、サーカスに歓喜する人々は徐々に減っていった。
1970年、映画監督のフェデリコ・フェリーニは「道化師」という映画の中で、サーカスの「死」について繰り返し語っている。サーカスは本当に、消えてしまうのか―?
サーカスの火を消してはいけない。演劇界やフランス政府に、サーカスをめぐる新しい動きが現れた。「生きながらえさせる」のでなく、「新しいサーカス」の魅力を生み出すのだ―。この時代にサーカス学校が次々に誕生し、一般家庭の若者たちにも広く門戸が開かれた。カリキュラムには、ダンスや演劇、音楽、美術などの専門家が招かれ、まさに総合芸術としてのサーカスが生み出されていった。
ヌーヴォー・シルクの世界では、技を見せるのが目的ではない。いわば、高い空中まで使って表現する演劇やダンスとイメージしてもらうといい。サーカスではタブーとされた「技の失敗」の概念もくつがえされ、十数メートルの高みから落下したり、手から玉が逸れていくさまを「見せる」こともある。しかし、常に高さやバランスといった物理的な危険要素をはらむサーカスでは偶然性に身を任せるわけにはいかないので、動きは綿密に計算され、体に叩きこまれる。
こうしてみると、リメディアの舞台はヌーヴォー・シルクの究極の形といえるかもしれない。あからさまな「技」は全く見えないが、演者は綱渡りのようにバランスをとり、小さな危険をすり抜けていく。その瞬間だけが、次の瞬間を保証する。がらくたに満ちた世界をどうにかこうにか切り抜けていく彼らの姿は、まさに、現代社会を生きる私たちの生きざまこそサーカスなのだと、暗に告げているように思えてならない。